風鈴製作者 空、その底辺でボソリ…(その97+347)

『生と死の狭間に自由はある。だが、その瞬間は各人一度きり。その観念は誰にも伝えられない』


 ※この日記は、風鈴製作者のそのときの気分によって内容が激変する可能性を孕んでいます。多趣味的人格(多重人格性とも言う)を認めない人にはきっと耐えられません。あしからず。


 そういえば、たまに挨拶を忘れてるよね。(挨拶@無礼者)


 ずーっと曇り。朝方はそうでもなかったが、日中から日没にかけては異様な蒸し暑さ。階段を上るときなど、重圧すら感じるほど(もちろん錯覚だ)。
 一般的に人間は死を恐れ、忌避するが、しかし冷静に考えると、いったいを恐れているのかは割りと不明なのではなかろうか。少し厳密に言うなら死そのものが怖いわけはない。何故なら死の瞬間とは肉体の停止であり、何も感じなくなるわけで、故に怖いはずがない。つまりは人間は死に至る過程が怖いのである。
 では死に至る過程とはなんだろうか?
 人間に限らず全ての生物は生まれながらに死に向かっている。成長しきってからは老化するだけだし、成長の過程にしたところで、完成する(成長しきる)ということは、後は壊れるだけなので、やはり死に向かっていると言えるだろう。――――結局のところ、“死に向かう過程”とは、“生”そのものだということになる。人間は生をこそ、恐れているのだ。


 死に際において、安らかに逝ける人はきっとそのことを充分に理解していた人だろう。反対に、そのことにまるで気付けずにいた人は、無闇に死を拒否し、苦しむ最期を迎える。どちらが特か、など風鈴製作者は知らない。皆、それぞれに思い込んで、生きて、独りで死んでいく。ただそれだけだ。