風鈴製作者 空、その底辺でボソリ…(その96+347)

『現代においては、解りやすさよりも、得意な何かを持つモノが信仰を得る傾向にあるような気がしないでもない』


 ※この日記は、風鈴製作者のそのときの気分によって内容が激変する可能性を孕んでいます。多趣味的人格(多重人格性とも言う)を認めない人にはきっと耐えられません。あしからず。


 朝から本格的に雨。局所的なものを除くと、こんなに降ったのはいつ以来だろう、と思うほど降った。気温はまあまあ涼しく過ごしやすい。…しかし明日から暑くなるそうな…。
 お布施、という言葉がある。本来の意味は、僧侶の方に金品などの謝礼を渡すこと(あるいはそれそのもの)を指すのだが、今回の意味は、贔屓しているメーカーの製品を、他者製品よりも値が張ろうとも無条件かつ可能な限りメーカー自体に多くの利益が渡るような方法で、購入することである。(例:オーディオ機器はDENONでなくてはダメで、必ずメーカー直販で購入(※風鈴製作者のことではない))
 まあコレは一種のスラングで、盲目的な信者(これもスラングだ)の行為を揶揄する言葉なのだ(と思う)が、しかしこういう言葉が生まれる辺り、何かに拘る、ということは、たとえ対象がどこにでもあるような一団体であろうと、当人にとっては神聖(神性)さを持つものなのだなと感じる。


 まあ、これが行き過ぎると信仰になるわけだが、では逆に考えて、信仰とはつまり一種の拘りなのか、という命題は真なのかどうなのか……微妙なラインではなかろうか。