風鈴製作者 空、その底辺でボソリ…(その50+347)

『何かに打ち込むというのはある意味で孤独と言える。そして長ずれば孤立となる』


 ※この日記は、風鈴製作者のそのときの気分によって内容が激変する可能性を孕んでいます。多趣味的人格(多重人格性とも言う)を認めない人にはきっと耐えられません。あしからず。


 ドドドドドドドド…!(挨拶)


 夜半には雨も上がり、久しぶりの晴天(そして暑い)。だが風が強く、つい先ほど突如として雨(現在16時過ぎ)。大気の不安定さを感じるが、しかし実際には一般人が考えるような極端な不安定さなど有り得るはずもなく、比較論による錯覚だ。
 昨日書いたことに端を発するわけではないが、昼過ぎから古くなった木椅子を修理した。だいたい作られてから15年ほど経つシロモノで、元々の作りが雑なのも手伝って歪みが酷く、金属部は軒並み錆びていた。仕方なく一度全て分解してから調整を加えて再構成。金属部は総交換し、破損していた一部のパーツも自宅にあった余り木で適当に捏造した(あまり丁寧ではない)。
 そして一度組み上げてみると、歪みそのものは修正されたが、どうにも色褪せている。風鈴製作者個人としては、これはこれで、とも思うのだが、しかしせっかくだしカラーリングしてみてもいいか、とも思う。
 考えどころではあるが、今日のところはそこで終了。一気にやってしまってもいいのだが、あまり集中しすぎても疲れるだけだし、また余裕が出来た時に続きをしようかと思う。――――そう思ったところで雨が降ってきた。


 ちなみに15年前にその椅子を作ったのは兄である。何かモノを作らせればその人物の人柄がだいたい判るが、まさにその典型例だ。釘が曲がったまま打ち付けられているとか、全然ヤスリがけがなされていないとか、ある意味一部の人にしか許容できない作りなのである。
 別に責めているわけではない。ただこういった“作る”という行為に対し、こだわりや適正が無いということだろう。