風鈴製作者 空、その底辺でボソリ…(その49+347)

『修理という行為が廃れるのは必然ではあるが、同時に人の心の排除でもある』


 ※この日記は、風鈴製作者のそのときの気分によって内容が激変する可能性を孕んでいます。多趣味的人格(多重人格性とも言う)を認めない人にはきっと耐えられません。あしからず。


 もっと恋人らしくしてもいいのだよ。(挨拶)


 また雨。日中、一度止んだようだが21時くらいから今度は強風も伴って降り出した。これでここ一週間中◎日が雨だ。ちょっと降り過ぎだと思う。気候自体は寒くも暑くもないのでそれなりに快適なのだが、このまま梅雨に突入したりすると夏前にまた野菜が高騰しそうだ。
 さて…現在、どんな電化製品でも本体のどこかに不具合が出たとき、ほとんどの場合がメーカーに修理を依頼するよりも新たに購入した方が安く、そして迅速に済む(もちろんこれは経年劣化などによる減価償却を考慮に入れた上の計算ではあるが…)。そして安価なものほどこの傾向が強い。例えば扇風機など修理した方が確実に高くつく。
 おそらくこれは安価なもの=大量生産品かつ複雑な電子回路を用いないものは、故障箇所を探すことに手間がかかるのではないかと考える。もちろん不具合の症状から故障原因を推測し、分解して探すのはどんなものでも共通だが、しかし人の手で直接修繕できないような電子回路を持つ機械はその内部がユニット毎に分かれており、それを丸ごと交換してしまうことで修理としている。しかしそうではない、モーターの単純な回転運動などで駆動している機工は、なまじ人の手で直せてしまうばかりに別の意味で作りが細かい(ユニット構造ではない)。その分、手間がかかり人件費がかさむ。結果として修理費が高くなるということだ。(逆に言うと、ユニット構造の機械は修理費の大半は人件費ではなく入れ替えたユニットの値段だろう)


 こうして修理という行為はどんどん廃れていき、同時にどんどん人の手から離れていく。考えてみれば、現在機械を製造しているのもまた機械であるし、とうに機械は人の手から離れているような気がしないでもない。