風鈴製作者 空、その底辺でボソリ…(その6+347)

『誤った常識や慣例は、社会の大多数の人間がそれに気付けば改められる。しかしそれは問題の顕在化から数十年後のことだ』


 ※この日記は、風鈴製作者のそのときの気分によって内容が激変する可能性を孕んでいます。多趣味的人格(多重人格性とも言う)を認めない人にはきっと耐えられません。あしからず。


 ジェバンニが一晩でやってくれました。(挨拶@無理)


 晴れ時々曇り。今日は寒い、と聞いていたがまるで寒いとは思わなかった。どうやら単なる比較論だったようだ。
 世間に常識・慣例は数多くあるが、その内の30%ほどは論理的ではなく利益を生み出さないもののように思う(そもそも“慣例”という言葉自体が過ちを示しているニュアンスがあるが)。例えば、あえて人道的なことを言うなら年長者を敬う、だとか、ハンデを背負った人間を援助する、だとかといったものだ。
 一応書いておくが、風鈴製作者は弱者を切れ、と言っているのではない。ただその言葉の意味を勘違いするな、と言いたいのである。言い換えるならば、弱者を弱者でなくせ、といったところか。無条件に奉られる、あるいは護られる存在は社会的に百害でしかない。
 しかし現状の社会保障制度は、ただひたすらに弱者を保護するものでしかない(徐々に変わりつつあるが、まだ不十分であることは明らかだ)。個人的には、これは弱者を更に弱者にするだけだと思っている。護っている、と思い込んでいる人種にすれば気分がいいのだろうが、それは単なる妄想だ。そういう人物も、また百害を生んでいる。


 こういうことを書くと、酷い、とか思う人もいるが、過去、この世界は身分差別や奴隷制度で満ちていたのである。それが常識だったのだ。でも現代はそうではない。個人の自由意志が認められている。だが将来的に世界がもっと豊かになり、より広義の意味での自由が保障されたときどんな社会になるのか――――そのへんをもう少し考えておくべきだと風鈴製作者は思う。