風鈴製作者 空、その底辺でボソリ…(その322)

『たとえ実行可能なことであろうとも、“可能”なだけでは誰も納得しない』


 ※この日記は、風鈴製作者のそのときの気分によって内容が激変する可能性を孕んでいます。多趣味的人格(多重人格性とも言う)を認めない人にはきっと耐えられません。あしからず。


 やめようやめようと思いつつ買うジャンプ。(挨拶)


 …今週の『DEATH NOTE』(Page.99)は色々と非難が多そうだ。
 別に彼女があの行動をするのが可能かどうかを論じるのであれば、間違いなく“可能”である。そのための材料も画面上にしっかり描かれている(というかそのために描かれているのだろう)。
 しかし彼女にそれを実行するだけの知識があるのかはかなり疑問。今まで彼女がバイクに乗っている描写は一度もないし、それどころか車すら運転しているシーンはない。バイクに関する知識を有しているかはかなり疑問といえる。
 また、仮にその知識があったとしても、きっと多くのジャンプ読者は納得しないだろう。メロの扱いに関しても同様である。…行き着く先が見えてきたか、DEATH NOTE。映画も公開されるって言うのにネェ…。


 ちなみに風鈴製作者は第1巻のDEATH NOTE HOW TO USE IT Ⅵの「書き入れる死の状況は、その人間が物理的に可能なことでなければ実現しない」という一文を、その行動に関する知識が無くては実現不可能だと解釈している。対象者の知識により死の状況が変化することは南空ナオミに対する書き込みが受領されたことからも明らかだからだ。――――って、少年漫画にここまで考察する必要はないんだけどさ。