風鈴製作者 空、その底辺でボソリ…(その304)

『社交的なのと、話を合わせるのは大きく違う』


 ※この日記は、風鈴製作者のそのときの気分によって内容が激変する可能性を孕んでいます。多趣味的人格(多重人格性とも言う)を認めない人にはきっと耐えられません。あしからず。


 まだ代理戦争気分?それとももう惰性?(挨拶)


 風鈴製作者はまったく興味が無いのでトリノオリンピックの放送は1分たりとも観ていないのですが、ニュースでの報道を見る限り、どうやらまだ一個もメダルを獲っていないんですね。
 別に必ずしも3位以内に入ることが目的ではないと思うのですが、それでは納得しないその競技とは無関係の人々がいることは確かなようです(割りと身近にいるもので…)。普段、各種競技の世界選手権などは気にもかけないくせに、オリンピックとなると国家代表というイメージが先行するのか途端に勝敗にうるさくなるのは何故なのだろう?
 国から予算が出ている、とかそういう理由なら、あらゆる国際試合に少なからず支給されているものだし、また国威発揚という観点から見ても、その効果は眉唾だろう。
 何で観るの?、という質問を不特定多数の人にすれば、そのうちの何割かは“感動”という単語を口にすると思う。しかしそれを言う人のほとんどは選手の技術ではなく、シチュエーションに心動かされている。ならばスポーツである必要はない。その辺りを勘違いしている人は多いと考える。


 以上はあくまで個人的考えだが、当たらずとも遠からずだろう。そもそも一般人にとって、オリンピックに出るような人たちは遠い世界の人だ。おかしな幻想を持つのも無理はない。――――とても不思議な思考だが。