風鈴製作者 空、その底辺でボソリ…(その285)

『“おかしな人間”とは、すなわち他者をそのように認識する者のことでもある』


 ※この日記は、風鈴製作者のそのときの気分によって内容が激変する可能性を孕んでいます。多趣味的人格(多重人格性とも言う)を認めない人にはきっと耐えられません。あしからず。


 積みゲー、崩れない…。(挨拶)


 一般的に何かを“おかしい”と思うのは、その観測者が何処かのポイントに立っていて、“普通”だと思うポイントと比較して大きくズレている、と観測するからだろう。
 しかしそのように“普通”のポイントを観測している時点でその人物も普通からはズレているわけで、やはり“おかしい”ということになる。
 観測者が“普通”のポイントに立っていては、“おかしい”と“普通”の比較が出来ない。また自らこそが普遍的“普通”などと断ずることが出来るのは神の視点を持つ者だけだ。そんな人間はいないし、そもそもそれはもはや人間ではない。


 誰も他人を評価出来ない。全ては結果次第。結果なくして評価を下すのは、精神の肥大に他ならない。――――戯言ですけど、ね。