風鈴製作者 空、その底辺でボソリ…(その284)

『訓練の目的とは最大出力の向上ではあるが、如何なる時でも全力を発揮できるようにするためでもある』


 ※この日記は、風鈴製作者のそのときの気分によって内容が激変する可能性を孕んでいます。多趣味的人格(多重人格性とも言う)を認めない人にはきっと耐えられません。あしからず。


 火事場のクソ力…、のことではない。(挨拶)


 例えば“準備運動をしてから100m走”という行為を行うとする。
 経験上、断言するが、何回走ってもほとんどタイムは変わらない(疲労は考えないこととする)。つまりそのタイムがその人の100m走における最大出力ということだ。
 しかし準備運動をしなければどうか?
 おそらく最大出力は出せないことだろう。筋肉組織などがほぐれていない、あるいは怪我をするかもしれないという無意識が力をセーブするためだ。
 これは他のどんなスポーツにも言える。準備運動をしないスポーツは無い(少なくとも風鈴製作者には思いつかない)。それが常識になっているため、一種の楔になっているような気さえする(気がするだけだけど)。
 一方、そうではない人々もいる。武術家だ(武道ではない)。あるいは軍隊術もそれに近いかもしれない。これらの職種(といってよいものか…)は最大出力と同時に、常に全力を出せる訓練をしているように思われる。彼らの行う業務はそういった技術を必要とする、突発的なシチュエーションが存在するからだ。
 しかしそういった技術が必要なのは、上記したような極めて特殊な職種に限られる。大抵の場合は準備期間が与えられているので、そのようなことを習得しなくてもゆっくりと“準備運動”が出来るのである。


 準備が出来るのは平和の証拠だ。常に何かに切迫しているような世界ならそんなことはしていられない。現代は、皆一緒に生きていくには適した世界だと風鈴製作者は思う。