風鈴製作者 空、その底辺でボソリ…(その239)

『独自の言葉を廃し、主観的な解釈で既存の言葉に変更するのは、理解することを放棄している証拠だ』


 ※この日記は、風鈴製作者のそのときの気分によって内容が激変する可能性を孕んでいます。多趣味的人格(多重人格性とも言う)を認めない人にはきっと耐えられません。あしからず。


 『キモい』→『気持ち悪い』とか、『ウザい』→『うっとしい』などですね。
 実際にこれらの言葉を使っている年代からしてみれば明らかにニュアンスが違うのですが、使わない人からすればこの解釈で理解しているつもりなのでしょう。
 しかし実際には大違いです。
 これはあくまで風鈴製作者の感覚なのですが、例えば『キモい』は『気持ち悪い』ほど明確に相手を非難しているわけではないと思うのです。この辺りは口にしたときのアクセントや音の強弱によって意味の強さが変わってくるのですが、概ねそうだと思います。
 言うなれば意味の幅を広く取った便利な言葉ともいえるのですが、これをそのまま『キモい』=『気持ち悪い』と受け取る人は、きっといつだって言葉を厳格に扱わないと我慢が出来ないワガママさんなのでしょう。
 正確に意味を伝えないと問題がある場ならともかく、あまり言葉を厳密に捉えるのは不自由だと思うのですが、どうでしょう?もともと言葉なんていくら重ねたところで、気持ちが100%伝わるわけではありません。70%くらいが関の山でしょう。それでも人と人は上手くやっていけるのです。


 ――――フレキシブルさが人間のもっとも優れた点のひとつだと風鈴製作者は思います。