風鈴製作者 空、その底辺でボソリ…(その200)

『人間以外の生物は非獲得的な攻撃をしない。故に人間は“生物失格”ではあるまいか』


 ※この日記は、風鈴製作者のそのときの気分によって内容が激変する可能性を孕んでいます。多趣味的人格(多重人格性とも言う)を認めない人にはきっと耐えられません。あしからず。


 200回ですね、ハイ、何もない何もない。(挨拶)


 人間には他の生物(植物含む)には見られない特性が山のようにある。
 そのひとつに弱者、特に無抵抗の対象への攻撃がある。
 前提として、これによって得られる食物や資源ないしは権限などが存在しないものとして考えるが、おそらくこの行動は心理的優越による精神的安定を求めるが故の行動だと風鈴製作者は愚考する。正直、他に影響を与える要因が見当たらないのでまず間違いないと考える(他者への威圧的行為だとすると、それに応じた強権という名の権限が獲得される)。
 しかし心理的優越感による精神安定を得たいだけならば、わざわざ同種であるところの他者をいたぶる必要はなく、別種の生物(犬・猫・猿など高等な知性を持っていればいるものほど有効だろう)をターゲットにすればよいのではないか?(実際に世間的に言う“異常者”は幼少期からそういった過程を経ている人物が多い。そういう意味では彼ら“異常者”は“正常”であると言えるかもしれない)
 では何故対無抵抗者暴力に走る者がいるのか?
 本来、生物とは同族を攻撃しないものである。したとしても縄張り争いなどに限るものであって、相手を殺すまでには至らない(偶発的に殺してしまうことはあるだろうが)。同族を意識的に殺すのは人間だけである。
 それが自己の繁栄という本能だけでは測れない規模で行われていることは歴史的に見ても明らかで、非常に非合理的であって到底説明がつかないと風鈴製作者は考える。なにか別の要因が絡んでいるのではないだろうか?それはなんだろう。
 トンデモ話ではあるが、人間自身が増えすぎた自分たちを間引くために獲得した新たなヒトだけの本能という考えがある。“間引く”という発想ならば、親による児童虐待が先進国で多いことも一応筋が通るし、非獲得的な暴力も理解できなくはない(許容しがたい考えではあるが)。


 ――――もし“繁栄する”という生物的本能を保持しつつ、“自らを間引く”というヒト的本能を獲得したのならば、その矛盾故、ヒトは“生物失格”である。