風鈴製作者 空、その底辺でボソリ…(その160)

『躾のつもりで“殴った”、という表現はおかしいとは思わないのかい?』


 ※この日記は、風鈴製作者のそのときの気分によって内容が激変する可能性を孕んでいます。多趣味的人格(多重人格性とも言う)を認めない人にはきっと耐えられません。あしからず。


 せいぜい“叩いた”だよね。(挨拶)


 一月に一度は必ずといっていいほど見る記事が、児童虐待に類する記事です。
 今日もそんな記事が朝刊に載っていたのですが、4歳女児の顔を平手で殴るなど暴行を繰り返し、脳挫傷くも膜下出血を負わせた加害者の母親と同居人の男が逮捕されたらしいです。女の子は心停止状態で病院に運ばれ重体だとか。
 いちおう加害者は両者ともに傷害の事実を認め、(マスコミの流している記事をそのまま信じるならば)上記のような供述をしているらしいですが、こういう表現で供述している辺り、善意の躾における事故であったと考えるにはかなりの抵抗があります。


 風鈴製作者は“児童虐待”という行為を、他のどんな行為よりも憤りを覚えます。理由は我ながら単純もいいところだとは思うのですが、被害者がまったく抵抗・自己防衛できないからです。
 確かに児童保護施設は過去と比べて充実していると聞きますし、子供自身の告発で保護してもらえるようになっているらしいです。
 しかし小学生にもなっていないような幼児が、そんな少しばかり知性と社会性を必要とする行動が出来るわけはないのですよ。幼児にとって、最大の保護者は無条件に自分を守ってくれるはずの親なのですから。


 付け加えるなら、加害者は加害者で親としての立場どうこう以前に、無抵抗の幼児をいたぶって楽しいんでしょうか?とうてい理解できません。(そういった行為に快楽を感じるメカニズムは知ってはいますが)