風鈴製作者 空、その底辺でボソリ…(その42)

『あの人、綺麗だよね〜。どうしたらあーゆーふうになれるのかな?』
『才能じゃない?』


 ※この日記は、風鈴製作者のそのときの気分によって内容が激変する可能性を孕んでいます。多趣味的人格(多重人格性とも言う)を認めない人にはきっと耐えられません。あしからず。


 各種手入れ等あるでしょうが、やはり基本的に“美”というものは才能だと思います。
 いや、だって成長してどんな外見になるかは(ある程度)生まれ持ったDNAで決まるわけでして。それは所謂才能と分類されるものでは?
 こういうことを言うと、差別だ、とか言う人がたまにいるんですけど、勘違いしないで欲しいのは、“美”とは才能だから、それが無い奴はあきらめたほうがいい、とか言いたいわけではないのですよ。
 そもそも万人に共通する“美”の定義など存在しないわけです。つまりあくまで個人の主観に基づくものであり、何人かが一様に美しいと感じても、その感性は一人一人違うわけです。
 Aさんが美しいと感じて、“ココ”が美しい、としたとしましょう。しかしBさんはそうは思わず、“アレ”が美しい、と感じ、むしろ“ココ”はマイナスにしかならない、と思うこともあるわけです。
 しかしながらAさんとBさんは同様に美しいと思っています。そこは互いに異論はないわけです。二人とも、同じものを見て、違う感じ方をしているにもかかわらず、どちらも美しいという判定を下す。――――これは一種の幻想と言えるのではないでしょうか。
 “美”=一種の幻想。それならば才能があろうが無かろうが、観測者を騙すことを主眼におけば、関係ありません。(騙すことは良くないこと?その意見は化粧を否定しますよ?)


 ――――詭弁でしょうか?(いえ、戯言です!)


追記
 ひとつだけ、この論理が通用しないと確信する場合があります。それは一部の隙も無い、全人類が認める完全無欠の美しさを持った人が出現した場合です。


追記2
 ここ数日、やたら硬い日記になってますね…。そろそろ柔らかくなります、スライムのように。ぼよよ〜ん、ぷるぷるぷるっ。