風鈴製作者 空、その底辺でボソリ…(4年目その346)

『人には最高の一を求める衝動がある』


 クラナド最終回ー。(挨拶)


 たまに雲が出ていたものの、だいたいは晴れ。しかし昨日同様、それほどには暖かくならなかった。
 ノベルゲームの走りである『弟切草』が発売された当初から言われていたことだが、ノベルゲーは思いついた要素を選択肢という形で全部詰め込めることが可能なので脚本家にとって理想的な媒体である反面、そうやって良しも悪しも盛り込んでしまうと、取捨選択が失われ、最高最善のストーリーが作られなくなるというマイナス要素がある。
 最近はノベルゲー(というかギャルゲー)のアニメ化が頻繁に行われているが、複数のルートをアニメ作品という一本線にまとめた結果、ひとつのルートにおける事件を片付けては次のルートに入るというブツ切り感のある構成になったり、そうすることによって、ルート毎におけるお話の要素が充分に語られず、中途半端なままに終わったりもする。また原作の流れをほぼ無視して、独自の物語に昇華するという試みを見せる作品もあるが、やはり原作ファンに限らず、不評な場合が圧倒的に多い。やはり他人が作ったものを再調理するには相当の能力が必要なのだろう(※ただしこれには例外的に素晴らしい結果を残した作品もあることは特筆しておきたい)。
 ノベルゲーにおける各ルートは言わばそれぞれがパラレルワールドだ。もう一歩踏み込むなら、各ルートが、というよりは、もはやセーブひとつひとつがパラレルワールドの起点なっていると言ってもよい。つまり原作ゲームをやっている人間にとっては、ある程度のパラレル的な構成、つまり各ルートをひとつひとつ個別に展開していくという手法も容認しやすいものであると考えられる。一方で、原作を知らず、アニメから入った人にとっては、物語とはひとつの不可逆な流れであるという意識が強い限り、同じ起点から何度もやり直すという感覚は受け入れがたいものではあるまいか。
 しかしそれもやりようではある。やはりパラレル的な展開を採用している(事実、パラレルなのだが)『ひぐらしのなく頃に』は、それでも割りと多くの人間に受け入れられたようだし、始めからそういう形の物語なのだと提示しておけば、それほど拒否反応は起きないようだ。アニメでも、しれっと起点に戻ってしまうのもアリなのかもしれない。


 さて、明らかにパラレル的展開をするのに、最終回まで完全に一本線で来てしまった『CLANNAD』は現在、某実況板で擁護・アンチ入り乱れて絶賛祭り中です。やっぱりねー、って感じだけど。