風鈴製作者 空、その底辺でボソリ…(4年目その275)

『時事ネタを完全に排除することは、物語を破壊することに等しい』


 4日目、って定着しつつある…。(挨拶)


 天気は晴れ。だが昨日までの三日間とは打って変わって寒くなった。別に年末だからといってとりわけ大掃除などするつもりはないが、しかし部屋は年末のコミック発刊ラッシュと戦利品その他で、ちょっとアレな状態。まだ寝床は確保できているが…。
 小説でも漫画でもそうだが、読者の一部には時事ネタを嫌う勢力がある。その作品が作られたときに流布された名言・珍言・言い回しなどを流用し、読者の共感を煽り、ウケを狙う行為を非難しているわけだ。
 多分、作者自身の知識や経験と無関係なネタであり、なおかつお手軽に利用しているように見えることから、作者の作家としての能力に疑問を呈し、そういう手段で商売をしていることを責めているのだろう。また、そういった一種の流行に触れていない人にとっては、どう読み取ろうとも意味不明であることも問題とされる論点となり得るようだ。
 確かに使用されている時事ネタを知らない人にとっては、まったく理解不能な、作品として無駄な部分であると言えるかもしれない。例えばある作品を10年後の人間が観たとしても、何が面白いのかはサッパリだ。――――だが、どんな作品においてもありとあらゆる時事を排することは不可能だ。その作品が作られた時代の風俗はどうしたって作品に含まれるし、世間的常識はもちろんのこと、科学常識だって移り変わっていく。例えば、かつて人口甘味料のサッカリンは発ガン性が高いと示唆され、発ガン性物質だという認識が一般に広まったが、実はかなり以前に発ガン性物質リストからは外されている(今でも多くの中高年の方は発ガン性物質だと思いこんでいるけど)。だから、現在でこそサッカリンは危険なものではないとされているが、ある一時代においては危険物扱いだったのである。このようにほんの10〜20年程度でも物事は変化するのである。作品中に当たり前のこととして描いたものが、ほんの少し時間が過ぎただけで、当たり前のことではなくなり得るのだ。そういった要素を全て排するのは不可能だし、仮に排することができたとしても、それはもう“人間の物語”ではない。


 シェイクスピアの戯曲は脚注だらけである。その多くは独自の言い回しによる迂遠な表現であるが、当時の時事ネタも多く含まれている。しかしそのことを非難する人はそうはいないだろう。さて、この違いはどこにあるのだろうか。