風鈴製作者 空、その底辺でボソリ…(4年目その61)

『摂理に恭順するもしないも個人の自由だが、どちらが正しく、そして安全かは言うまでもない』


 OK Friend!(挨拶)


 小雨日和。時折止んではまた降るといった塩梅で、気温は低い。なんかこのまま梅雨に入りそうな感じだ。
 繰り返し書いていることだが、“個人の自由”とはその思想や信仰・行動が他者に被害を及ぼさない範囲内において保証されるものだ。しかし年々、協議や議論といった全体が関わる場において、どうしようと個人の自由でしょ、と平然とのたまう人間が増えているように思う。もちろんそういった人間は早々に排される運命にあるのだが、しかしそういうあからさまな非を抱えた人間すら庇おうとする傾向もあり、事実、いつまでもそういった人間が居座り続け害を振り撒き続けることもザラだ。
 個人の自由をその許容範囲を越えて振りかざす人間やそれを擁護する人間は非常に狭い視野しか持っていないと判断できる。自分と自分のごく限られた周囲、そして10年どころかほんの数年先のことすら想像しないからこそそういう行動に出るのであり、それは傍から見ていれば自滅行為に等しい。


 長期的かつ大局的に見ればそういう人間が優遇されることなどありえない(優遇された後にそういう人間になることもあるが、それは別の話だ)。これは“常に流動的な常識”を知らないだけに留まらず、“不変の摂理”を解さない無知な人間も同様である。