風鈴製作者 空、その底辺でボソリ…(その211+365+347)

『ことさらに愚痴をこぼす人間の97%は自分の知らない世界を想像していない』


 ※この日記は、風鈴製作者のそのときの気分によって内容が激変する可能性を孕んでいます。多趣味的人格(多重人格性とも言う)を認めない人にはきっと耐えられません。あしからず。


 …誰?(挨拶)


 急速接近した台風は足早に去り、後には何も残らなかった。そんな様相の空模様で、朝はやや冷えたものの、日中はとても暖かくなった。
 仕事後、個人的な関係の友人たちと久しぶりに夜遊び(いかがわしい意味ではない)。
 こういった席で付き物なのが個人的な愚痴(主に職場の)なのだが、まあ大抵の場合、その内容はさほど重要でも特殊でもなく、人間社会においてはどこにでもありふれていることを延々と自身の悲喜こもごもを込めて離しているだけに過ぎない。以前にも書いたが、それで解決に向かうわけでもない。
 要するに誰かに聞いてもらい、同意(らしきもの)をもらって自身の正当性を確かめた上で、鬱憤を発散している(と思い込んでいる)だけなのだが、しかしほとんどの場合、話を聞いている人間は同意などしていない。まともに頭を使いながら話を聞いている人間にとって、他人の愚痴などまさに他人事であるし、主観的な情報しか得られないため、検証をするには不充分に過ぎる。故に愚痴に対して同意する人間とは話をまともに聞いていない人間だけである。


 愚痴とは“愚にもつかない痴態”であり、元々は仏教語で“物事に対する無知”を指す。まともに話を聞いている人間に対してこれを繰り返すことは自らを貶める行為に他ならない。同じような状況にない間柄ならば、なおさらだ。