風鈴製作者 空、その底辺でボソリ…(その9+365+347)

『死ぬのは自由だ。命は本人のものである。――――誰も巻き込まないのは前提だが』


 ※この日記は、風鈴製作者のそのときの気分によって内容が激変する可能性を孕んでいます。多趣味的人格(多重人格性とも言う)を認めない人にはきっと耐えられません。あしからず。


 猫娘、可愛いよ。猫娘。(挨拶)


 薄曇り、のち雨。気温は平年よりも少し涼しいくらいか。15時くらいに降り始め、一旦は晴れ間も覗き、止むかに思えたが、以降、本降りに。
 外山某には15,000票も入ったみたい。そういえばいまだにYouTubeの映像は削除されていない。きっとネット上での選挙運動が禁止されるのは、長くてもあと2年だろう。以上、選挙の話はおしまい。
 政府の有識者会議「自殺総合対策の在り方検討会」で自殺抑制のために青少年と中高年、高齢者の3世代ごとの自殺対策などを盛り込んだ提言をまとめ、高市早苗内閣府特命担当相に提出したらしい。記事はコチラ
 別に何をどう考えて、どう行動しようと自由だが、風鈴製作者が思うにまず無駄なことだ。そもそも自殺者とは、大別して、自殺(あるいはそのフリ)をして注目を集めようするタイプと、一種の逃避(脱却)として自殺を選択するタイプに分かれる。どちらも実際に相対して説得するのは難しい。前者は説得という行為が的外れだし、後者はすでに自分に対して結論の出ている人間のすることだ。何を言っても無駄である(あえて言うなら、力づくで止めて、ゆっくりと説得するのはアリかとは思う。しかしそれは洗脳と言うのではなかろうか?)。
 少なくとも、あなたが死ねば誰かが悲しむ、などの論旨では自殺者は言うことなど聞かないだろう。それが通じると思っている人は、一般的に言って健全なのかもしれないが、死を選ぶ人間の心理を考えない、非情、もしくは想像力の足りない馬鹿な人間だろう。


 自殺者に対して、その場の行動など意味はない。自殺者をなくしたいなら、誰もが納得する社会と、許容できる境遇を用意するしかない。一部の“健全な”人間が社会を運営している限り、無理な相談だが。