風鈴製作者 空、その底辺でボソリ…(その232+347)

『無償の愛。その言葉そのものが、通常、愛は無償ではないことを示している』


 ※この日記は、風鈴製作者のそのときの気分によって内容が激変する可能性を孕んでいます。多趣味的人格(多重人格性とも言う)を認めない人にはきっと耐えられません。あしからず。


 昭和生まれというだけで、昔の人扱いされる現実。(挨拶)


 14時くらいまでは晴れていたが、その後、曇り。聞くところによると、明日は雨らしい。そういえば、秋口から今までにかけて、今年は降雨量が少ないらしく、四国の一部は平年の1割も降っていないとか。渇水渇水
 最近、愛国心がどうのこうのと言われている。各種メディアで取り上げたり、あるいは真面目に議論したりしているようだが、風鈴製作者的には、そんなことまでしなければならないか、ということが疑問だ。
 そもそも愛というものは、ある一面においては打算である。対象に、愛し守る価値があると判断するからこそ、愛というものは自然に発生するものだろう。少なくとも、風鈴製作者はそうである。そうでなかったことなど無い。
 どうも教育の上で、愛国心というものを教え込もうとしているらしいが、もし本当にそんなことまでしなければこの国を愛せない人間ばかりならば、この国はすでに愛される価値が無い、終わりかけた(終わった?)国だということだろう。ならばそんな魅力のない国家体制を立て直す方が先決ではなかろうか?


 現在だけでなく、過去に眼を向けてみても、この国は近代にしてきたことを否定ばかりしている。そんな自虐的な国が自国民に愛されるかどうかなど、自明のことだと思うのだが…。(例:あなたはひたすら卑屈な両親を好きになれますか?)