風鈴製作者 空、その底辺でボソリ…(その338)

『ジャーナリズムとは客観性から最も遠い思想だ』


 ※この日記は、風鈴製作者のそのときの気分によって内容が激変する可能性を孕んでいます。多趣味的人格(多重人格性とも言う)を認めない人にはきっと耐えられません。あしからず。


 これこれ、そこの子供よ。呪いのワラ人形を持ち歩くのは止めなさい。(挨拶@実話)


 ずっと曇っている。夕方に風が吹き始める。そろそろ雨が降るだろう。
 昨日、N○Kで放送していた、放送と通信の融合を論じる、みたいな番組がやっていた。番組タイトルは覚えていない。そんなものはまったく重要ではないと判断しているからだろう。
 ともかくその番組内でしきりに、ジャーナリズムが云々、という声を上げている方がおり(これも誰だか覚えていない。こちらは失礼に当たるかもしれない。反省)、それに対し、そもそも視聴者がTV局のジャーナリズムを信用していない、という反論(?)があった。
 しかし風鈴製作者が思うにそれ以前の問題として、視聴者がTV局にジャーナリズムを求めているのか、ということがある。別に誰にも求められていないからといってそれを否定するつもりはないが、しかし大多数の視聴者が求めているのはエンターテインメントと事実に基づいた情報だ。ジャーナリズムは主観を交えた、一種の演出といえる。それは事実を他のものとすり替えてしまうだろう。


 そういった演出に流される人は多い。TVの公共性の高さが成せるワザだろう。もちろんそういった公共性は非常時にはとても有効なものだ。しかし平時にはどうだろう?もし“自由”を謳うなら――――ね?