風鈴製作者 空、その底辺でボソリ…(その91)

『何かを争うということは略奪合戦に等しい』


 ※この日記は、風鈴製作者のそのときの気分によって内容が激変する可能性を孕んでいます。多趣味的人格(多重人格性とも言う)を認めない人にはきっと耐えられません。あしからず。


 TVゲーム等をやるといつも思うことですが、やっぱり絵・文章・音楽(BGM)・音声(Vo.)・効果音(SE)が全部入れられるというのは有利ですよねぇ…(アニメも似たようなものですが、アレには文章的な遊びが入れられないので少し落ちると思います)。
 小説のように文章だけだと、文体的技法と純粋なお話の面白さ(とネタ)に全てがかかっているので、より創意工夫が必要なように思います。これがマンガなんかになると幾分マシなんでしょうが、それでもBGMやVo.はないからなぁ…。
 しかし五感に訴える手法の数が多いからといって必ずしもいい作品になるわけではなく、やはり各々が優れていないとダメなわけで。あくまで風鈴製作者の個人的意見ですが、32bitゲーム機の出現以降のゲームは正直良い作品が少ないと思います。なにか“派手に”“見栄えがする”“耳当たりのいいリズム”などの表層的な技術に走りすぎていて、やっている最中はそこそこ楽しめるけれど、いつまでも心には残らないゲームを量産しているようなイメージがあるのですよ。テクノロジーばかりが育って、メンタルを生み出す人間が育っていないという感じでしょうか。
 ファミコン時代を生き抜いてきた風鈴製作者的には、もっと奇抜なゲームが増えて欲しいと願って止みません。ついでに言うと、もっとファミコンによく存在した理不尽なくらいに攻略が難しいゲームもアリだと思ってます。S○NYの方針がライトゲーマー中心に広く浅く売ることだとは充分すぎるほどに知ってはいますが、ここらで少し変化球(つか魔球か?)を投げておかないと、将来的に某アタリのようなことが起こるのも無きにしも非ずと思う今日この頃、いかがお過ごしでしょうか?(挨拶――――ウソです。今日はここまで)