風鈴製作者 空、その底辺でボソリ…(その65)

『どんな状況なら人を殺せるかって?常軌を逸してさえいれば、何時でも何処でも誰でも殺せるんじゃないか?』


 ※この日記は、風鈴製作者のそのときの気分によって内容が激変する可能性を孕んでいます。多趣味的人格(多重人格性とも言う)を認めない人にはきっと耐えられません。あしからず。


 多分、殺人事件の99.2%くらいはそんな状況下で行われていると思います。
 また逆に言えば、精神的に強固な人は、平和な世に育とうとも、やはり平常心でも人を殺せるのでしょう。
 もちろん人殺しは良くないことです。そのことに普遍的な理由は無く、またそれを許容されるような理由もまた存在しません(正当防衛?あれは法律が勝手に定めているだけで、一般的な免罪符だとは到底思えません)。
 それを前提にあえて言いますが、風鈴製作者個人としては、もし人殺しをする時は自らの確固たる意思で決断し、自らの手を直接汚し、平常心で全てを受け入れる覚悟を決めて、実行して欲しいと考えます。
 そうしたからといって許されるわけでもありませんし、ましてや誰かが救われるわけでもなく、殺した相手の供養になるわけでもありません。しかしそれが人としての誇りなのではないでしょうか(忠臣蔵がこれに近いと考えます。四十七士は誰一人逃げずに裁きを粛々と受け入れました)。
 繰り返しますが、人殺しは悪逆非道な行いであり、絶対に許される行為ではありません。でもどんな行為も、誇りを持って実行するべきだ。ただそれが言いたい、雨の日の風鈴製作者でした。


追記
 一昨日、しばらく読めないとかほざいてたくせに、もう『ネコソギラジカル(中)赤い制裁vs橙なる種』を読み終わりました。いつ読んだ?――――寝ないで読んだ(バカ決定)。