風鈴製作者 空、その底辺でボソリ…(その121+365+347)

『英雄とは理想であらねばならない。故に彼の者は人ではなく、幻想に等しい』


 ※この日記は、風鈴製作者のそのときの気分によって内容が激変する可能性を孕んでいます。多趣味的人格(多重人格性とも言う)を認めない人にはきっと耐えられません。あしからず。


 『悪鬼喰』…顕現準備。(挨拶@なんとなくリトバスより先にプレイ中)


 朝は曇りで、すぐに雨となった。昨日と同じく一時豪雨となり、雷も轟いた。14時前くらいには上がったが、夜にはまた降り出し、再度、雷雨となった。気温は異様に低く、昼が涼しいことに留まらず、深夜には寒さすら感じたほど。7月下旬に素で寒さを感じたのは初めてかもしれない。
 人はありとあらゆる闘争の中で、英雄を見出そうとする。始めに城壁を越えた者、より多くの障害を排除した者、敵将を討ち取った者、自軍の旗を打ち立てた者、あるいは常軌を逸した行為の果てに憤死した者…、とまあ、いろいろだ。
 多分、そういった分かりやすい象徴がいると、それに憧れ、それを模倣、またはそれに従属することで、その座に近づこうとする。そういった一種の向上心というか、目標に似た何かを得て、前進するようになるのだと分析する。
 こういった人間心理はよくプロパガンダに利用されてきた。国家間の戦争に限らず、組織内部の政争にも頻繁に用いられてきたし、用いられている(現代では戦争に関しては個人的英雄など皆無になったが)。しかしその多くにおいて、“英雄”とされた人は、実際には特別なことなどしておらず、ただ堅実に何かを積み上げたか、偶然に助けられたか、場合によっては真実何もしていないにも拘らず、英雄に仕立て上げられたこともあっただろう。
 そういう人は哀れだ。大抵、そのような境遇に置かれた人は、一時は栄華にまみれるものの、すぐにその座を追われ、最後にはどことも知れず姿を消したり、怠惰な人生を送ったりする。


 事実として、奇跡をなしえたような巨人英傑ならばともかく、凡人に英雄を演じ続けることは不可能であり、また大衆もその存在を支えようとはしない。何故なら民衆は英雄に支えられるものであり、英雄はそれ一個で完璧であり、そうでなくてはならない、それでこその英雄だからだ。英雄など孤独な幻想である。